
母が倒れたのは、春先のまだ肌寒い朝だった。桜の開花予報がニュースで流れ始めた頃、私の携帯に病院から連絡が入った。幸い命に別状はなかったが、数日間は意識が戻らず、その間に私は初めて母の生活の「内側」を覗き見ることになった。母の部屋に入り、冷蔵庫の中を確認し、郵便物を整理し、そして手にしたのが母のスマートフォンだった。ロック画面には孫の写真が映っていたが、そこから先へは進めなかった。パスワードがわからない。当たり前のことだが、その瞬間、私は途方に暮れた。
銀行のアプリ、病院の予約システム、電気やガスの契約情報、友人たちとのやり取り。母の日常はすべてこの小さな端末に集約されていた。けれど、私にはそこへアクセスする術がなかった。もし母がこのまま意識を取り戻さなかったら、私は何から手をつければいいのだろう。通帳は? 印鑑は? 保険の証書は? そもそも、どこに何があるのかさえ把握していなかった。母が元気なうちに聞いておけばよかった。そう思っても、後の祭りだった。
母が意識を取り戻してから、私たちは少しずつ「万が一のこと」を話すようになった。最初は遠慮がちに、それからだんだんと具体的に。母は「まだ大丈夫よ」と笑いながらも、少しずつ教えてくれた。銀行の口座がいくつあるか、どこにどんな保険をかけているか、スマホのパスワードは誕生日と飼っていた犬の名前を組み合わせたものだということ。ちなみにその犬の名前は「モコ」で、母がパスワードを口にした瞬間、私は思わず「シンプルすぎない?」と心の中でツッコんでしまった。でも、それが母らしいとも思った。
その時に初めて知ったのが、クラウド型エンディングノートの存在だった。紙のノートではなく、オンライン上で情報を管理し、必要な時に必要な人へ届けられる仕組み。母はまだ使っていなかったが、私はすぐに興味を持った。デジタルで管理されているなら、情報の更新も簡単だし、紛失の心配もない。何より、離れて暮らしている私にとって、母の状況を把握できる安心感は計り知れないものがあった。
安否確認という言葉には、どこか重たい響きがある。けれど実際には、それは「つながり」そのものだと思う。毎日の「元気?」というメッセージ、週末の電話、ときどき送られてくる庭の花の写真。それらすべてが、安否確認の一部だ。そしてもし、何かあった時に、私がすぐに気づける仕組みがあれば、母も私も、もっと安心して日々を過ごせる。クラウド型のツールには、定期的な確認機能がついているものもある。一定期間ログインがなければ、登録した家族に通知が届く。それは監視ではなく、見守りだ。
情報継承という言葉も、最近よく耳にするようになった。これは高齢者だけの問題ではない。私自身、もし明日突然倒れたら、夫は私のスマホを開けられるだろうか。サブスクリプションの契約がどれだけあるか、把握しているだろうか。ネット銀行の口座、SNSのアカウント、クレジットカードの引き落とし先。自分でも正確に覚えていないものがいくつもある。ましてや、家族が知るはずもない。
ある友人は、夫が急逝した後、彼のスマホを開けられず、契約していた動画配信サービスの解約に半年以上かかったと言っていた。毎月の引き落としは続いていたが、どこから請求が来ているのかさえわからなかった。彼女は銀行の明細を一つひとつ確認し、見知らぬ企業名を検索し、問い合わせを繰り返した。その疲弊した表情を、私は今でも覚えている。
情報を整理し、伝えるべき人に伝える。それは愛情の形でもある。自分がいなくなった後、残された人が困らないようにすること。それは決して縁起でもない話ではなく、現実的で優しい準備だ。母のスマホを前に途方に暮れたあの日以来、私はそう思うようになった。
クラウド型エンディングノートは、単なる記録ツールではない。それは、未来への手紙だ。今の自分から、いつか困るかもしれない誰かへの、具体的で温かいメッセージ。パスワードの羅列も、銀行口座の番号も、そこに込められた意味を考えれば、すべてが大切な言葉に変わる。
母は今、少しずつ情報を整理し始めている。私も、夫と一緒に同じことを始めた。リビングのテーブルで、コーヒーの湯気が立ち上る午後、私たちは互いのスマホを見せ合いながら、笑いながら、でも真剣に話をする。それは少し気恥ずかしくもあるけれど、必要なことだと分かっている。伝えるべきことを、ちゃんと伝えておくこと。それができる今のうちに。









