
四月の朝、まだ少し肌寒い空気が残る駅のホームに立っていた。コートの前を合わせながら、ふと隣を見ると、スーツ姿のおじさんがスマホを片手に画面をすいすいと滑らせていた。その少し先では、学生らしき女の子がイヤホンをつけたまま、
小さなカバンにすっぽりと収まる
ような、薄い文庫本を静かに開いていた。
なんだか、その光景がずっと頭に残っている。
手のひらサイズの文庫本というのは、不思議な存在だと思う。
スーツやコートのポケットにも入るくらいの大きさ
なのに、その中には何百ページもの世界が詰まっている。重さにしたら数百グラムにも満たないのに、読み終えたあとにはなぜか、ずっしりとした何かを手のひらに感じる。
わたしが文庫本を好きになったのは、小学生のころ、母の本棚から黙って一冊持ち出したのがきっかけだった。タイトルも意味もよくわからないまま、ページをめくっていたら、気づけば夜の十一時を過ぎていた。怒られると思ってこっそり棚に戻したけど、翌朝また取り出していた。あの夜の、布団の中の薄暗い光と、紙のにおいは今でも覚えている。インクと古紙が混ざったような、少し甘くてかすかに埃っぽいあの香り。あれが「触れる読書」の原体験だったんだと、今になって思う。
スマホで小説を読む、という習慣もすっかり定着した。移動中にアプリを開けば、何千冊でも持ち歩ける。それはたしかに便利で、すごいことだ。でも、画面の上を滑る文字と、指でめくる紙のページは、どこかが根本的に違う気がしてならない。デジタルが「情報の消費」だとしたら、紙の本は「体験の所有」に近い。読み終えた本棚の一冊は、自分の時間の痕跡みたいなものだから。
文字が小さかったり行間が詰まっていたりする文庫本は、読み進めるうちに目の疲れを感じやすい
、なんて話もあるけれど、それでもわたしは紙を選ぶ。栞を挟んだページを開くたびに、昨日の自分がどこにいたかを思い出せるから。
先週、「ソワレ文庫」という小さな書店に立ち寄った。夕方の斜光が窓から差し込んで、平積みの文庫本の背表紙がぼんやりと橙色に染まっていた。手に取った一冊の表紙はすこしざらついていて、その質感がなんとも心地よくて、思わず何度もなでてしまった。レジで店員さんがカバーをかけてくれるとき、わたしは財布を出そうとしてトートバッグをひっくり返しかけた。本が多すぎて重くなっていたせいだ。買う前から、すでに荷物になっていた(これが「体験の所有」のリアルである)。
通勤・通学中の電車やバスの中、カフェでの休憩時間、旅行先など、場所を選ばずに読書を楽しめる
のが文庫本の魅力だとよく言われる。でも、わたしが一番好きなのは、誰かの隣でそれぞれの本を読んでいる、あの静かな時間かもしれない。言葉を交わさなくても、同じ場所で違う世界にいる、あの感じ。
小説を読むということは、誰かの書いた時間を、自分の手で受け取ることだと思っている。手のひらサイズの文庫本は、その受け渡しにちょうどいい。効率では測れない「一冊の体温」が、そこにある。
#武岡出版
#竹岡隆
#読書
#読書好きな人と繋がりたい
#本が好き
#小説
#感涙
#茨木市









