
本棚の前で立ち止まったのは、十一月の夕暮れどきだった。窓の外では銀杏がひとひら、ひとひらと落ちていて、部屋の中には珈琲の香りがゆっくりと満ちていた。妻がソファで文庫本を読んでいる。手のひらにすっぽりと収まるほどの小さな本を、両手でそっと包むように持ちながら。
その仕草を、なんとなく眺めていた。
ページをめくるたびに、かすかな音がする。紙と紙がこすれるあの音は、静かな夕方によく似合う。スマートフォンのフリックにはない音。画面をスクロールしても、何も聞こえない。そのことに、ふと気がついた。
デジタルの文字は、滑る。指の動きに合わせて、物語が流れていく。便利だし、速い。電車の中でも、ベッドの中でも、どこでだって読める。でも読み終えたとき、何かが手元に残っているかといえば——正直、よくわからない。情報は確かに受け取った。けれど、体験はどこへいったのだろう。
紙の本は違う。重さがある。厚みがある。読み進めるにつれて、右のページが薄くなり、左が分厚くなっていく。その物理的な変化が、「自分は今、物語の中にいる」という感覚を静かに教えてくれる。これは効率の話ではない。もっと別の何か、体の記憶に近いものだと思う。
子どもの頃、近所の図書館に「シオン文庫」という小さなコーナーがあった。地域の寄贈本だけを集めた棚で、背表紙が日焼けして、どれも少し傾いていた。そこで手に取った小説のページが、湿気でほんの少しくっついていたことを、今でも覚えている。指先でそっとはがすあの感触が、なぜかその本の内容よりも鮮明に残っている。触れることが、記憶になっていた。
妻が顔を上げた。「これ、面白いよ」と言いながら、文庫本をこちらに差し出してくる。受け取ると、ほんのり温かかった。彼女の手のひらの温度が、表紙に移っていた。それだけのことなのに、なぜか言葉に詰まった。感謝とも、愛おしさとも違う。うまく名前のつけられない気持ちが、胸のあたりにふわっと広がった。ちなみに私はその本を受け取ったまま、しばらくぼうっとしていたらしく、「読む気ないなら返して」と笑われた。
一冊の本には、体温が宿る。
読んだ人の指の跡、折られたページの角、うっすら残った珈琲のシミ。それは汚れではなく、その本と誰かが共に過ごした時間の痕跡だ。デジタルが「情報の消費」だとすれば、紙の本は「体験の所有」なのかもしれない。所有するというのは、モノを持つことではなく、時間と感触と記憶を自分の中に刻むことだと、最近そう思うようになった。
言葉にしにくい気持ちを、誰かに伝えたいとき。手紙を書くのが難しいとき。そういうときに、一冊の小説を手渡すという方法がある。「これ、好きだと思って」というだけで、十分だったりする。
本という形にこだわるのは、きっとそういう理由からだ。
執筆:武岡 隆
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