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四月の夕方、窓の外がオレンジ色に溶けていく時間帯に、わたしはいつも本棚の前で立ち止まる。スマホを充電器に挿したまま、あえて離れてみたくなる、そういう気分の日がある。

手のひらサイズの文庫本を一冊取り出す。105ミリ×148ミリ。たったそれだけの世界が、ずっしりと、でも優しく、掌に乗る。

先週、近所の古書店「ソレイユ書房」で買ったばかりの小説だった。背表紙が少し日焼けしていて、前の持ち主が何を感じながら読んでいたのか、なんとなく気になった。栞代わりに挟まれていたレシートが落ちてきたとき、思わず「あ」と声に出してしまった。レシートには「ホットミルク ¥380」とだけ書いてあって、なんだかその人のことが急に好きになった。

紙をめくる音が、静かな部屋に小さく広がる。ぱら、ぱら、というリズムが、どこかお気に入りのカフェのBGMより落ち着く気がする。

スマホで読む物語は速い。スクロールすれば次の行がすぐ来て、気づいたら広告が挟まっていて、気づいたら別のアプリを開いている。情報を消費している、という感覚。でも紙の本はちがう。ページをめくるたびに、少しだけ抵抗がある。その抵抗が、いい。読んでいることを、身体が覚えている感じ。

触れる読書、という言葉をどこかで見かけた。最初は大げさだなと思ったけれど、今はすごく腑に落ちている。指先で紙の繊維を感じながら、物語の中に入っていく。それは体験であって、消費じゃない。一冊の本に、体温がある。

子どもの頃、母が読み終えた文庫本をこっそり読んでいた。ページの端が少し折れていたり、鉛筆で薄く線が引いてあったりして、母がどこで感動したのかがわかった。それが嬉しかった。本って、読んだ人の痕跡が残るんだなと、小学三年生のわたしはなんとなく理解していた。

夜が深まるにつれて、部屋の空気がすこし冷えてくる。ブランケットを膝にかけて、文庫本を両手で持ち直す。紙のにおいが、ほんの少し鼻をかすめる。インクと、乾いた紙と、時間の積み重なりみたいな香り。

自分を大切にするって、なんだろうとたまに考える。高いスキンケアを買うことかもしれないし、早く寝ることかもしれない。でも最近は、一冊の小説を丁寧に読み終えることも、そのひとつだと思うようになった。誰かに急かされず、通知も来ない時間の中で、物語と静かに向き合う。それだけで、なぜか自分がすこし回復する。

手のひらサイズの文庫本は、かさばらない。バッグの隅にそっと入れておける。でもその小ささの中に、誰かの人生が丸ごと入っている。それって、すごいことだと思う。

効率では測れない豊かさが、たしかにここにある。画面を滑る文字には出せない、紙だけが持つ重みと温かさ。一冊の体温に触れる贅沢を、もう少しだけ、自分に許してあげたい。
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