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夕暮れどきの書斎で、ふと気づくことがある。スマートフォンの画面をスクロールし続けながら、何かを読んだ気はするのに、何も残っていない。情報は確かに目を通った。けれど、どこかへ滑り落ちてしまった。

先日、本棚の奥から一冊の文庫本を取り出した。背表紙がわずかに日焼けして、ページの端が柔らかく波打っている。手のひらサイズのそれを開いた瞬間、古い紙の香りが静かに漂った。かすかに甘く、少しだけ埃っぽい。子どもの頃、夏休みに祖父の家の押し入れで見つけた本の匂いと、どこか似ていた。あの頃の自分は、その本の意味など半分もわかっていなかったと思う。それでも夢中でページをめくっていた。

紙の小説には、重さがある。物理的な重さではなく、手のひらに伝わる「存在の重み」とでも言えばいいか。画面を滑る文字は軽い。便利で速い。けれど指先には何も残らない。一方、文庫本のページをめくるとき、紙の抵抗がわずかに指に返ってくる。その小さな感触が、なぜか読んでいるという実感を深めてくれる。

触れる読書、という言葉がある。目だけで処理する行為ではなく、手で、鼻で、時には耳でも感じる読書。ページをめくる乾いた音。冬の朝、布団の中で文庫本を開いたときの冷たい紙が、読み進めるうちにじんわりと温もる感覚。あれは画面では絶対に再現できない。

ある夜、妻が隣でうとうとしながら文庫本を持っていた。読みかけのまま指がページに挟まり、本がゆっくりと胸の上に倒れていく。それを横目で見ながら、「しおりという文明の利器があるのに」と心の中でそっとツッコんだ。でも、その光景はどこか愛おしかった。本と一緒に眠りに落ちるなんて、スマホでは様にならない。

最近、「ノワール書房」という小さな古書店に立ち寄った。店主が丁寧に選んだ文庫本が、木の棚にひっそりと並んでいる。値札の代わりに、一言のメモが添えられていた。「夜ひとりで読んでください」。そんな本の売り方が、今の時代にあるとは思っていなかった。買って帰った小説は、まだ半分しか読んでいない。急いで読もうとは思わない。

デジタルが「情報の消費」であるなら、紙の本は「体験の所有」だと思う。読み終えた本棚に並ぶ一冊一冊は、自分が過ごした時間の記録でもある。折り目のついたページ、線を引いた一文、そういうものが積み重なって、その本はもう「自分の本」になっていく。

効率では測れないものが、確かにある。手のひらに収まる一冊の文庫本の中に、それはある。
執筆:武岡 隆

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