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夕暮れどきの書斎で、一冊の文庫本を手に取った。

窓の外では、十月の風が金木犀をかすかに揺らしていて、その甘い香りが薄く部屋の中まで流れ込んでいた。蛍光灯ではなく、スタンドの橙色の光だけを灯していたのは、なんとなく、そうしたかったから。理由を言葉にするのは難しい。ただ、その夜は「画面の光」ではなく「紙の光」の中にいたかった。

手のひらサイズの文庫本というのは、不思議なものだ。重さにして、おそらく百五十グラムにも満たない。それなのに、持った瞬間にずしりとした何かを感じる。情報の密度、ではなく、もっと別の何か。言うなれば、「誰かの時間が閉じ込められた重み」とでも呼ぶべきものだろうか。

思い出すのは、子どもの頃のことだ。母が台所仕事をしながら、文庫本を冷蔵庫の上に置いていた。料理の合間にページをめくる。そのしぐさが、子どもの自分にはひどく大人びて見えた。小説を読む、ということが、生活の中にさりげなく溶け込んでいた。スマートフォンなどなかった時代の話だが、あの「本が生活の一部である」という感覚は、今の自分が一番取り戻したいものかもしれない。

デジタルの文字は、滑る。

これは比喩ではなく、本当に物理的な感覚として、指がディスプレイの上を滑っていく。スクロールするたびに、文章が流れていく。情報として処理されていく。それ自体が悪いわけではない。便利さは、確かに暮らしを助けてくれる。ただ、「所有した」という感覚が残らない。読み終えても、どこか手ぶらのままでいる。

紙の本は違う。

ページをめくるたびに、指先に微細な抵抗がある。紙の繊維が肌に触れる感触。読み進めるほどに、右手が薄くなり、左手が厚くなっていく。その物理的な変化が、「自分は今、物語の中を歩いている」という実感を与えてくれる。触れる読書、とでも言えばいいだろうか。体全体で受け取る行為だ。

先日、「ブックカフェ・シオン」という小さな店で、知人が文庫本を読んでいた。コーヒーカップを渡そうとしたとき、彼女はページから目を離さずに手だけを差し出した。カップをそっと受け取り、それでも視線は本の上にある。その横顔が、妙に美しかった。――ちなみに私はそのとき、カップをうまく渡せずに少しこぼした。本人には黙っている。

一冊の小説には、体温がある。

誰かが書いた言葉が、紙に染み込み、印刷され、製本され、書店に並び、誰かの手に渡る。その長い旅の果てに、今夜、自分の手の中にある。効率では絶対に測れない贅沢が、ここにある。

画面の向こうの物語も、もちろん悪くない。でも、たまには手のひらの中の一冊に、じっくりと時間を預けてみてほしい。きっと、忘れていた何かが、静かに戻ってくるはずだから。
執筆:武岡 隆

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