
目が覚めて、カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。5月の朝は、まだ少し肌寒くて、でも日差しだけはもう初夏みたいに白い。「あ、今日水曜日か」と気づいた瞬間、なんとなく気持ちが重くなる感じ、あるよね。
週のちょうど真ん中。月曜に積み上げたものが、じわじわとここへ来て体に乗ってくる。疲れ、というほど大げさじゃないけど、なんか、すっきりしない。頭がぼんやりしてる。心がどこかにいっている。そういう朝が、水曜日には多い気がする。
わたしは最近、そういう朝にひとつだけ決めていることがある。スマホをすぐに見ない、ということ。通知の赤いバッジを無視して、まずお湯を沸かす。ポットのスイッチを押す音がして、しばらくするとシューッという小さな蒸気の音。その音を聞きながら、ぼんやりとテーブルの木目を見ていると、なぜか少しだけ呼吸が楽になる。
先日、近所の雑貨屋さん「ソラノテ」で買ったリネンのコースターがある。くたっとした質感で、触るたびに「あ、やわらかいな」と思う。別に高いものじゃないけど、毎朝そこにマグカップを置くだけで、なんか整う感じがする。不思議だなと思いながら、たぶんそれが「余白」なんだと気づいた。
余裕がないとき、人って無意識に余白を削っていく。朝ごはんを立ったまま食べたり、着替えながら返信したり。でもそうやって隙間を埋めれば埋めるほど、どこかがじわじわと漏れていく気がする。
子どもの頃、お母さんがよく言ってた。「疲れたら、まず座りな」って。当時はなんでそれだけ?と思ってたけど、今になってわかる。座る、という行為そのものが、体に「止まっていいよ」と教えてくれるんだと思う。
今朝は白湯を飲んだ。ハーブティーにしようと思ったのに、ティーバッグを取り出しながらそのまま白湯でいいかと思い直して、結局お湯だけ飲んだ。ちょっとだけ「ズボラかな」とも思ったけど、それがなんか心地よかった。(完璧にしようとしなくていい瞬間って、意外と安心する。)
疲れていることは、悪いことじゃないと思う。それはちゃんと動いてきた証拠で、感じているということは、まだ自分が自分のそばにいる証拠でもある気がして。
安心できる場所って、どこか遠くにあるんじゃなくて、こういう朝のひとかけらの中にあるんじゃないかな。木目のテーブル、白いマグカップ、窓の外でちょっとだけ揺れてる葉っぱ。それだけで、なんとなく「今日もいるか」って思えてくる。
前向きになろうとしなくていい。整えようとしなくていい。ただ、お湯を沸かして、座って、窓の光を見てるだけで、呼吸はちゃんとそこに戻ってくる。水曜日の朝は、そのくらいでちょうどいい。
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#心を整える
#無理しない
#余白時間
#安心感
こういう時間は、特別なものではなく、
ほんの少し意識するだけで日常の中に生まれるのかもしれません。
忙しさの中で見落としていたものに気づくと、
時間の流れは少しだけやさしくなる気がします。
もし、こうした“静かな余韻”に少しでも価値を感じるなら、









