
朝の7時14分発、各駅停車の車内はいつも少しだけ眠そうだ。吊り革を握る手、画面を見つめる目、イヤホンから漏れる微かな音。みんなそれぞれの朝を持ち寄って、同じ箱の中に詰め込まれている。
私はそんな車内で、ずっと文庫本を読んできた。
コートの胸ポケットに、すっぽりと収まる手のひらサイズの文庫本。あの薄さと軽さは、長年連れ添った相棒のようなものだ。背表紙が少し擦れていても、ページの端が折れていても、それがまたいい。使い込まれた道具には、その人の時間が染み込んでいる気がする。
デジタルで読む小説も、悪くはない。それは正直に言う。どこでも買えて、すぐ読める。荷物にもならない。でも、スマホの画面を滑る文字は、どこか素通りしていくような感覚がある。情報が「消費」されていく、というのだろうか。読んだはずなのに、何かが手元に残らない。
紙の本は違う。
ページをめくる、あの微かな音。湿度を含んだ紙の匂い。指先に伝わる、わずかな厚みの変化。読み進めるにつれて、右側が薄くなり、左側が重くなっていく。その物理的な手応えが、「自分は今、物語の中にいる」という実感を静かに教えてくれる。
思い出すのは、子どもの頃のことだ。祖父の書斎に忍び込んで、背伸びして棚から本を引き抜いた。タイトルも意味もよくわからないまま、ただ紙の匂いを嗅いで、活字の並びを眺めていた。あの感触が、今でも本を手にするたびに、どこかで蘇ってくる。
先日、「ブックス・カルネ」という小さな古書店で、一冊の小説を見つけた。昭和の終わりに刷られた文庫本で、誰かの書き込みが余白にあった。鉛筆で、「ここ、好き」とだけ。それだけで、その本が急に体温を持ったように感じた。誰かがこの一行に心を動かされた。そのことが、ページを通じて伝わってくる。デジタルには、たぶんこれはない。
電車の中で向かいに座った若い女性が、文庫本を膝の上で開いていた。読みながら、ふいに口元が少しだけ緩んだ。物語の中の誰かに、笑いかけたのかもしれない。私もつられて、自分の本に目を落とした。そのとき思ったのだが、紙の本を読む人は、みんな少しだけ「遠くにいる」顔をしている。現実の車内にいながら、別の場所に半分、足を踏み入れているような。
ちなみに私はその瞬間、降りる駅をひとつ乗り過ごした。物語に引き込まれすぎて、気づいたら見知らぬ駅名が窓の外を流れていた。まあ、それも悪くない朝だったと思う。
一冊の本は、「体験の所有」だと、私は思っている。読み終えた後も、本棚に並んだその背表紙を見るたびに、あのときの自分が戻ってくる。効率では測れない何かが、確かにそこにある。
今日も胸ポケットに、一冊。それだけで、少し豊かな一日になる気がしている。
執筆:武岡 隆
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