
朝の通勤電車は、いつも少しだけ騒がしい。ドアが閉まる音、アナウンスの声、誰かのイヤホンから漏れる低音。そのざわめきの中で、私はいつの間にか、手のひらサイズの文庫本を開く習慣がついていた。
スマートフォンを持っていないわけじゃない。むしろ、ニュースも読むし、SNSも覗く。でも、あの薄くて軽い画面の中の文字は、どこかするりと抜けていってしまう気がする。読んだはずなのに、残らない。情報が「消費」されていく感覚、とでも言えばいいだろうか。
先日、ふと書棚の奥から一冊の小説を引っ張り出した。背表紙が少し日焼けしていて、ページの端が柔らかく波打っている。かつて何度か読み返した痕跡が、本そのものに刻まれていた。開いた瞬間、古い紙と微かなインクの香りが混じり合って鼻先をかすめた。懐かしいような、落ち着くような、不思議な匂いだった。
子どもの頃、母が読み聞かせてくれた絵本も、こんな匂いがしていた気がする。布団の中で、少し黄ばんだページをめくってもらいながら、言葉の世界に引き込まれていった夜。あの感覚は、スクロールでは再現できない。
紙の本には、「重さ」がある。物理的な重さではなく、一冊という単位が持つ密度のようなもの。読み終えた時、手の中に確かな達成感が残る。それは「体験の所有」と呼んでいいと思っている。
文庫本なら、胸ポケットにも入る。鞄の隙間にも収まる。画面のように光らないし、充電も要らない。電車が混んでいても、少し俯いてページを開けばそこだけ静かになる。物語が、喧騒を遮断してくれる。
ある朝、向かいの席に座った若い女性が、架空のインテリアブランド「Librasse(リブラッセ)」のトートバッグから文庫本を取り出した。表紙を見ると、私が二十代の頃に読んだ小説と同じタイトルだった。思わず少し前のめりになってしまい、吊り革を握る手が滑った。恥ずかしいとも思ったが、それよりも、あの物語が今もこうして誰かの手の中にあることが、なんだか嬉しかった。
触れる読書には、そういう偶然の接続がある。画面の中の文字は個人に閉じているけれど、本という形は、時間を越えて人から人へと渡っていく。
効率で測れないものの中に、人が本当に求めているものが潜んでいる。一冊の体温に触れること。それは、どんなに便利な時代になっても、失いたくない贅沢だと、私は思っている。
執筆:武岡 隆
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