
夜が少し深くなってから、ふと本棚の前に立つことがある。別に何かを探しているわけではない。ただ、背表紙を眺めていると、どこか落ち着くのだ。
先日、引き出しの奥から一冊の文庫本が出てきた。奥付を見ると、もう二十年近く前に買ったものだった。表紙の角は少し丸くなり、ページの端がほんのりと黄ばんでいる。それなのに、手に取った瞬間、妙な懐かしさと重みが指先に伝わってきた。あの感覚は、スマートフォンの画面を何度スクロールしても、おそらく一度も感じたことがない種類のものだと思う。
デジタルの文字は、どこまでも軽い。素早く、便利で、どこへでも連れていける。それ自体を否定するつもりはない。ただ、画面の上を滑っていく文字と、紙の上に刷られた文字とでは、何かが根本的に違う気がしてならない。情報として消費するのか、体験として所有するのか。その違いは、読み終えたあとに残るものの質にはっきりと現れてくる。
手のひらサイズの文庫本には、独特の親密さがある。電車の中で、あるいは休日の昼下がり、縁側のような場所でひっそりと開く一冊の小説。ページをめくるたびに、かすかな紙の音がする。あの「さっ」という音は、静けさの中でこそ際立つ。香りもある。古い本特有の、少し甘くて乾いたにおい。それはどんな香水よりも個人的な記憶と結びついている。
思えば子どもの頃、父が読み終えた小説をこっそり借りて読んでいた。難しくてほとんど意味がわからなかったけれど、ページを繰るたびに「大人の世界に少し触れている」ような気がして、それだけで十分だった。内容よりも、あの重みと手触りが先に記憶に刻まれている。不思議なことに、今でもあの本のタイトルより、表紙の感触のほうを鮮明に思い出せる。
ある夜、「ノクターン書房」という小さな古書店で一冊の小説を手に取った。店主の老人が「これは読む本じゃなくて、持つ本ですよ」と言った。最初は意味がわからなかったが、帰り道、鞄の中でその重みを感じながら、なんとなく理解できた気がした。所有することで、すでに何かが始まっているのだと。
自己肯定感が揺らいでいるとき、人は往々にして「速さ」や「効率」に逃げ込もうとする。スマホで次々と記事を読み、動画を流し、それでも何かが満たされない。そういう夜に、一冊の文庫本をそっと開いてみてほしい。触れる読書には、デジタルが持てない「体温」がある。ページの重さは、物語の重さだ。
それに、紙の本はこちらの都合に合わせて通知を送ってこない。その静けさが、今の自分にはちょうどいい。
執筆:武岡 隆
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