ALT

夕暮れどきの台所で、湯を沸かしながらふと思い出すことがある。

小学三年生のころ、母が枕元に置いてくれた一冊の文庫本。表紙はくすんだ山吹色で、角がすこし折れていた。あの本の重さを、今でも右手が覚えている気がする。たった百数十グラム。でも、あの重みは「物語が宿っている重さ」だと、子どもながらに感じていた。

スマホで小説を読む時代になった。それはわかっている。通勤電車の中でも、寝る前のわずかな時間でも、画面さえあれば何千冊もの物語に触れられる。便利さという点では、もはや紙の本に勝ち目はないのかもしれない。

けれど、と私は思う。

画面を滑る文字には、匂いがない。

先日、神保町の古書店街をひとりで歩いていたとき、「ブックスタンド・ルミエール」という小さな店に吸い込まれた。扉を開けた瞬間、古い紙と木の棚が混ざり合ったような、あの独特の香りが鼻をついた。誰かが長い時間をかけて読み込んだ気配が、空気ごと漂っている。デジタルの画面には、永遠にあの香りは宿らない。

手のひらサイズの文庫本を一冊、棚から抜き出す。ページをめくると、かすかな風が指先に触れる。紙の表面にはわずかな凹凸があって、印刷された文字の周りに、ほんの少しだけインクの重みが感じられる。こんな細かいことを気にするのは私だけかもしれないが、その微細な感触が、なぜか物語の世界への入口になる。

デジタルが「情報の消費」だとすれば、紙の本は「体験の所有」だと思う。

読み終えた一冊は、本棚に立てて並べることができる。背表紙を眺めるだけで、あのとき感じた感情や、読んでいた季節の空気が戻ってくる。スマホの「読書履歴」では、そうはいかない。データはあっても、記憶には触れられない。

ちなみにその日、ルミエールで手に取った文庫本を読み始めたのは帰宅してすぐのことだったが、夢中になりすぎて鍋の湯を三度も沸騰させてしまった。台所から漂う湯気と、膝の上で開いたままの小説と。なんだか妙に豊かな夜だったと、今になって思う。

触れる読書には、効率という物差しが似合わない。ページをめくる音、手に伝わる重み、日が落ちてから手元のライトを引き寄せる動作、そういった小さな所作のすべてが、読書という体験を構成している。

一冊の本には、体温がある。

誰かが書き、誰かが手にし、時間をかけて読まれてきた。その積み重ねが、紙という物体に静かに宿っている。スマホで読む物語も、もちろん悪くない。でも、たまには手のひらに一冊の重みを乗せてほしい。それだけで、日常のどこかが、少しだけ豊かになるから。
執筆:武岡 隆

#武岡出版
#竹岡隆
#読書
#読書好きな人と繋がりたい
#本が好き
#小説
#感涙