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四月の朝、まだ少し肌寒い空気が車内に残っていた。

通勤電車に乗り込んで、いつもどおりスマホを取り出しかけたとき、ふと隣に座った人が目に入った。文庫本を開いている。手のひらサイズの、小さくて白っぽい背表紙。ページをめくる指先が、静かにリズムを刻んでいた。その仕草が、なんだかとても豊かに見えた。

最近、紙の本に手が伸びる人が増えている気がする。SNSでも「#文庫本のある暮らし」というタグを見かけるようになったし、書店の文庫コーナーが以前より活気づいているような感覚がある。デジタルに疲れた、という声をあちこちで聞くようになった今、手のひらサイズの文庫本が静かに、でも確かに、見直されている。

わたし自身の話をすると、小学生のころ、母の本棚から勝手に借りた文庫本を布団の中で読んでいた記憶がある。懐中電灯を持ち込んで、親に見つかったら電気を消したふりをして——そのスリルも込みで、物語が好きだった。あのときの本の重さと、紙のちょっとざらついた感触は、今でも指先に残っている気がする。

画面の中の文字は、スクロールするたびに消えていく。情報として処理されて、流れていく。でも紙の小説は違う。ページをめくるたびに、自分の中に何かが積み重なっていく感覚がある。デジタルが「情報の消費」だとしたら、紙の本は「体験の所有」だと思う。読み終えたあとも、本棚に並んだその背表紙を見るだけで、あの物語の空気を思い出せる。それはデータには代替できない、一冊だけの体温だ。

触れる読書、という言葉がある。視覚だけじゃなく、指先や重さや匂いまで含めた、全身で味わう読書のこと。文庫本の紙には、独特のにおいがある。新しいページを開いたときのあの少し甘くて乾いた香り。インクの黒さ。光の角度によって、紙の表面がうっすら光る瞬間。こういう細かいことが、不思議と物語への没入感を深めてくれる。

架空の話をひとつ。もし「ノトリ文庫」という小さな出版社があったとして、そこが出す本は全部、手のひらにぴったり収まるサイズで、紙の質にとことんこだわっているとしたら——絶対に通いたい。そういう本を、電車の中でそっと開きたい。

ちなみに先日、久しぶりに文庫本を鞄に入れて出かけたら、栞を挟み忘れてどこまで読んだか完全にわからなくなった。スマホなら自動で記録してくれるのに、と少し思ったけれど、ページをぱらぱらとめくりながら「あ、ここだ」と見つけたときの感覚が、なんだか悪くなかった。非効率さの中に、ちょっとした喜びがある。

電車の中でスマホを見る時間を、一冊の文庫本に変えてみる。それだけで、通勤がすこし違う時間になるかもしれない。
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