
四月の午後、子どもが昼寝に落ちた隙間に、久しぶりに棚から一冊を引き抜いた。手のひらサイズの文庫本。ずっしりとした感触が、じんわりと手に伝わってくる。
スマホのホーム画面を開けば、数秒で小説の続きを読める時代だ。それは便利で、たしかに快適だと思う。でも、この日の午後、薄曇りの光が窓から差し込む台所の隅で、コーヒーを一口すすりながら文庫本のページをめくっていたとき、ふと気づいた。ああ、これは「消費」じゃなくて「体験」だ、と。
画面を指で滑らせるとき、文字は流れていく。速く、軽く、どこまでも。でも紙のページをめくるとき、そこには微かな抵抗がある。紙の繊維が指先にひっかかる感触。少しだけ乾いた音。インクの匂いとも呼べない、あの独特の紙の気配。それらが全部まとまって、「一冊の体温」みたいなものを形成している。
思えば小学生のころ、母が持っていた文庫本をこっそり開いてみたことがある。字が細かくて何も読めなかったけれど、そのページの薄さと、手のひらに収まるサイズ感が妙に好きだった。大人の世界への入り口みたいに見えていたのかもしれない。あの感覚は、今でも手のひらの記憶として残っている気がする。
デジタルが「情報の消費」なら、紙の本は「体験の所有」だと思う。読み終えた文庫本を本棚に並べるとき、その背表紙を見るだけで、あのときの空気が戻ってくる。読んでいた季節、飲んでいたもの、部屋の温度。スマホの読書履歴には、そういうものが残らない。
触れる読書、という言葉がある。視覚だけじゃなく、手で、においで、重さで読む行為。文庫本はその全部を満たしてくれる。ページをめくる右手の親指の感触、読み進めるにつれて左手が薄くなっていく感覚——ああ、もうすぐ終わる——というあの少し寂しい予感も、紙の本でしか味わえない。
ちなみに先週、読みかけの文庫本をエプロンのポケットに入れたまま洗濯してしまった。ページがぱっくり波打って、乾かしても元には戻らなかった。それはちょっとした失敗だったけれど、「ここまで読んだ」という証みたいで、なんとなく捨てられずにいる。
架空のインテリアブランド「ソラノタナ」が提案するような、窓辺に一脚の椅子と小さな棚、そこに文庫本が数冊並ぶ風景。そういう暮らしの中に、紙の本はしっくりと溶け込む。スマホには出せない「存在感」を持って、静かにそこにある。
小説を読むことは、誰かの人生を一時間だけ借りることだと思っている。その借り物が、手のひらサイズの文庫本という形をしているとき、なぜか少しだけ丁寧に扱いたくなる。画面の中の文字には、そういう気持ちがなかなか湧かない。紙の本には、触れるだけで伝わる何かがある。それは効率では測れない、確かな贅沢だ。
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