
文庫本を買ったのは、確か十一月の夕方だった。駅前の小さな書店で、棚の端に一冊だけ残っていた。背表紙の色が少し褪せていて、それがなぜか気になって手に取った。手のひらにちょうど収まるサイズ。重さも、温度も、妙に馴染んだ。
その日の帰り道、隣を歩いていた妻がふと「何買ったの」と覗き込んできた。特に答えを求めているわけじゃなさそうな、あの軽い感じの問いかけ。「小説」とだけ返したら、「ふーん」と言って前を向いた。それだけの会話だったけれど、なぜかずっと覚えている。
スマホで読む小説も、悪くはない。通勤中にイヤホンを外して、画面をスクロールしながら物語に入っていく感覚は確かにある。でも、どこか「消費している」感じがつきまとう。文字を目で追っているのに、読んだ気がしない夜がある。情報として処理しているのか、体験として受け取っているのか、自分でも区別がつかなくなる。
紙の本は違う。
ページをめくるたびに、微かな空気が動く。インクと紙が混ざったような、あの独特の香り。蛍光灯の下で読むより、少し暗い部屋で手元だけ照らして読む方が、なぜか物語に入りやすい。文字の密度が、目ではなく指先で伝わってくるような感覚がある。これは比喩じゃなくて、本当にそう感じる。
子どもの頃、父親の本棚から勝手に文庫本を抜き出して読んでいた。意味はよくわからなくても、ページを繰る行為そのものが好きだった。あの感触が、今もどこかに残っている気がする。
「ツバメ文庫」という小さな出版レーベルの本を最近よく買う。装丁がシンプルで、持ち歩いても疲れない厚さのものが多い。先週も一冊買って、読み終わらないまま枕元に置いてある。栞代わりに挟んだレシートが、少しはみ出している。妻に「整理しなよ」と言われたが、なんとなくそのままにしている。
一冊の本には、体温がある。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、誰かが読んだ本を手に取ると、その人の時間が少しだけ混じっている気がする。効率では測れない何かが、紙には宿っている。デジタルが「情報を届ける」ためのものだとしたら、紙の本は「体験を所有する」ためのものだと思う。読み終わっても、本棚に残る。重さとして、記憶として。
感謝とか、大切にしているとか、そういう言葉をうまく言えない。言えないまま時間が過ぎていく。でも、同じ一冊を読んで「これ、よかったよ」と渡すことはできる。言葉にならないものが、手のひらサイズの文庫本に収まることがある。
紙の本を、久しぶりに開いてみようと思った。
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