ALT

日曜日の朝というのは、なぜこんなにも静かなのだろう。

カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上に細い帯をつくっている。まだ七時を少し過ぎたばかりで、通りを走る車の音もほとんどない。コーヒーメーカーが低くうなり、部屋の中にだけ時間が流れているような、そういう感覚がある。

一週間分の疲れと、一週間分の言葉が、まだ整理されないまま胸の中に残っている。誰かに言えた言葉、言えなかった言葉、言いすぎた言葉。それらがゆっくりと沈澱していく時間が、日曜の朝には確かにある。

思い返すと、子どもの頃の自分も、日曜の朝だけは少し違う顔をしていた。父が新聞を読む音、母が台所で立てる微かな水音、そういうものの中で、ひとり布団の中で本を読んでいた。物語の中に入り込むと、現実の時間がどこかへ消えてしまう感覚があって、それが不思議で、少し怖くて、でも手放せなかった。

物語というのは、不思議なものだと今でも思う。

書かれた言葉は、読む者によって全く違う色に染まる。同じ文章を十人が読めば、十の異なる景色が生まれる。それは言葉が不完全だからではなく、むしろ言葉が余白を持っているからだと、最近になってそう感じるようになった。

余白、という言葉を最初に意識したのは、ある小さな書店でのことだった。東京の外れにある、「栞と硝子」という名の古本屋で、店主の老人がぽつりと言ったのだ。「いい本は、読み終わってからが本番なんですよ」と。そのとき自分はうまく意味が飲み込めなくて、ただ曖昧に頷いた。でも今なら少しわかる気がする。

物語が終わった後に、静かに広がっていく何か。それは説明しきれない感情の尾のようなもので、言葉にしようとするとこぼれ落ちてしまう。その「こぼれ落ちる部分」こそが、余白なのかもしれない。

コーヒーカップを両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってくる。湯気がゆっくり立ち上り、焙煎の香ばしさが鼻先をかすめる。こういう感覚も、物語を読むときの感覚と、どこか似ていると思う。言葉が体の中に入ってきて、じわじわと染み込んでいく感じ。

ふと、先週の出来事がよみがえる。

打ち合わせの後、同僚がコーヒーを差し出してくれた。「お疲れさまです」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。たったそれだけのことなのに、その仕草がやけに心に残っている。言葉ではなく、動作の中にある何かが、確かに伝わってきた気がした。

人は言葉だけで伝えているわけではない、と思う。でも同時に、言葉にしなければ届かないものもある。その間にある、微妙な距離感を、物語はいつも丁寧に描いてきた。

ちなみに、先ほど「今日こそ読もう」と思って本棚から取り出した文庫本を、うっかりコーヒーカップの真横に置いてしまい、湯気でページの端が少し波打った。読む前から本が緊張しているようで、思わず苦笑した。

なぜ人は物語を必要とするのだろう。

情報を得るためなら、もっと効率的な手段がある。感情を動かしたいなら、音楽の方が速いかもしれない。それでも人が物語を手放さないのは、物語だけが持つ「時間の流れ方」があるからではないだろうか。物語の中では、過去も未来も現在も、不思議な形で混ざり合う。誰かの記憶が、いつの間にか自分の記憶のように感じられる瞬間がある。

言葉は、余白の中に宿る。

書かれていない部分に、読む者の感情が入り込む。そこで初めて、物語は完成するのかもしれない。

カーテンの向こうで、鳥が一声鳴いた。光の帯が少し動いて、部屋の色が変わった。一週間がまた始まろうとしている。でも今はまだ、この静かな朝の余白の中に、もう少しだけいたい気がしている。

あなたが最後に「読み終わった後も、ずっと残っている」と感じた物語は、どんな言葉でできていただろうか。
#日曜日
#言葉の力
#物語
#読書時間
#余白
#静かな時間

———

言葉の余白には、まだ触れていない物語が残っています。

その静けさに少しでも何かを感じたなら、

その続きを、もう少しだけ辿ってみてもいいのかもしれません。


武岡出版の作品一覧はこちら


『琥珀と蒼 ― AIが愛した時間 ―』の詳細を見る