
春の終わりかけの、ある夜のことを思い出す。夜の10時をすこし回ったころ、部屋の電気を落として、スタンドライトだけをつけた。オレンジがかった光が畳の上にひとつ丸く落ちて、そこにわたしは膝を抱えるようにして座っていた。スマホを充電器に差したまま、手に取ったのは一冊の文庫本だった。
A6判、105mm×148mmというコンパクトなサイズ。
片手にすっぽり収まる、あの感触。手のひらサイズの文庫本を開いたとき、ページの端がほんのすこし反って、紙のにおいがふわりと鼻をかすめた。インクと紙が混ざったような、あの独特の香り。なんとなく、深呼吸したくなる瞬間だと思う。
最近、紙の本を手に取る機会がまた増えてきた気がする。スマホで読める小説もあるし、便利なのはわかっている。でも、画面をスクロールして読み終えた物語って、どこか「消費した」感覚が残る。読んだはずなのに、手元に何も残っていない。それがずっと、少しだけさびしかった。
文庫本はコンパクトであるぶん、レイアウトの違いが読み心地に影響しやすい。
行間のひとつひとつに、息継ぎのような間がある。ページをめくるたびに、紙の微妙な厚みと抵抗を指先で感じる。これが「触れる読書」なんだと思う。視覚だけじゃなく、触覚も、嗅覚も、全部つかって物語に入っていく感じ。
子どものころ、母の本棚から勝手に文庫本を抜き出して読んでいた時期があった。背表紙の色が全部ちがって、並んでいるだけでなんだかきれいだった。読んでいる途中でうとうとして、本を顔に落としたことが何度あったか。──いまもたまにやる。先週も、「霧ノ浜文庫」という架空の街が舞台の小説を読みながら、気づいたら本が胸の上に乗っていた。ちゃんと落としていた(しかも開いたまま)。
デジタルが「情報の消費」だとしたら、紙の本は「体験の所有」だと思う。読み終えた一冊が本棚に並ぶとき、その背表紙を見るだけで、読んでいたときの夜の空気や、飲んでいたお茶の温度みたいなものまで思い出せる。スマホの「読了リスト」にはない感覚だ。
スーツやコートのポケットにも入るくらいの大きさの文庫本は、電車の中やちょっとした空き時間に読書を楽しみたい人にとって、小さくて持ち運びがしやすい存在だ。
でもわたしにとっては、持ち運びやすさよりも、「手の中に一冊の世界がある」という感覚のほうがずっと大切だったりする。
一冊の小説には、体温がある。そう言ったら大げさかもしれないけれど、読み込まれた文庫本には、読んだ人の時間が染み込んでいる気がする。折れた角、うっすらついた指の跡、しおり代わりに挟んだレシート。そういうものぜんぶが、その本の「記憶」になる。
スマホで読む物語は、もちろんそれはそれで好き。でも、たまには手のひらサイズの文庫本を開いて、ページをめくる音だけが聞こえる夜を、過ごしてみてほしいと思う。触れる読書の温かさは、きっと画面の向こうには、ない。
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