
八月の日曜日の朝、六時を少し回ったころ。カーテンの隙間から差し込む光が、まだどこか白く、空気はひんやりとしている。夏の盛りのくせに、この時間だけは妙に静かで、蝉もまだ眠っているのか、声ひとつ聞こえない。そんな朝に、ふと一つの言葉が浮かんだ。
「幽玄(ゆうげん)」。
今ではほとんど日常会話には登場しない。能楽や古典の文脈で語られることはあっても、誰かとのやりとりの中でさらりと使われる場面は、もうほとんどないだろう。それでも、この二文字が持つ重さというか、静けさというか、そういうものは確かに存在している。
「幽」は、かすかで奥深いもの。「玄」は、暗く、深く、底が見えないもの。合わさると、表面には現れないけれど確かにそこにある、深遠な美しさを指す。能楽師の世阿弥がこの言葉に込めたのは、言葉や形では伝えきれない何かを、あえて伝えようとする試みだったのかもしれない。
むかし小学生のころ、祖父の書棚にあった古い辞書を勝手に引いていたことがある。「幽玄」という項目を見つけて、意味を読んで、まったく理解できなかった。「奥深い趣」とあって、「趣ってなんだ」とさらに引いて、「おもむき」とあって、ますます迷子になった記憶がある。あのとき辞書を三冊またいでもたどり着けなかったものに、今になってようやく少しだけ近づいた気がしている。
コーヒーを淹れようとして、豆を挽く機械のスイッチを逆に押してしまった。なんの変化もなく、ただ静かに朝が続く。そういう小さなズレも、今朝はなんとなく愛しい。
日本語という言語は、描写の粒度がとても細かい。たとえば光ひとつとっても、「木漏れ日」「薄明かり」「残光」と、それぞれに異なる情感を持つ表現が存在する。「幽玄」もまた、その系譜にある言葉だ。見えるものではなく、見えないものの気配を、あえて言語化しようとした。その試みそのものが、すでに美しいとわたしは思う。
喫茶「木洩れ陽文庫」という名の小さな店が、以前通っていた街の路地裏にあった。古い木の椅子と、すこし傾いたテーブル。そこで読んだ一冊の本の中に、「幽玄とは、語れないものを語ろうとする沈黙である」という一節があって、長いこと頭から離れなかった。
日本語は、表現しきれないものをあえて言葉にしようとする。その緊張感の中に、この言語の繊細さがある。「幽玄」という言葉を声に出してみると、低く、静かに、口の中で消えていくような感触がある。音そのものが、意味を運んでいるような気がする。
あなたはこの言葉を、どんな情景に重ねるだろうか。
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こういう時間は、特別なものではなく、
ほんの少し意識するだけで日常の中に生まれるのかもしれません。
忙しさの中で見落としていたものに気づくと、
時間の流れは少しだけやさしくなる気がします。
もし、こうした“静かな余韻”に少しでも価値を感じるなら、
ぜひ武岡出版の作品もご覧ください。






