RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
「言葉」という「言葉」
「言葉」と書き、二字のあいだを離してみる。「言 葉」。こうすると、普段はほとんど意識しない組み合わせが急に目へ入ってくる。
「言」は分かる。口にすることや、何かを述べることにつながる字である。気になるのは、その隣にある「葉」だ。
なぜ、人が話したり書いたりするものに、木の葉の字が付いているのだろう。「言」だけなら、意味は直接的である。告げる、述べる、言い表す。
字の形にも、どこか改まった硬さがある。そこへ「葉」が加わると、言うという行為だけではなく、言われたものの姿まで見えてくる。葉は一枚だけで成り立つものではない。
枝につき、重なり、同じ木にありながら一枚ずつ形が違う。その像は、一つの考えからいくつもの表現が現れる様子と重なる。「言の葉」と書けば、二字のあいだに「の」が入り、すっかり一語になっていた「言葉」の継ぎ目が見える。
古今和歌集の仮名序には、和歌について「人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」とある。ここでは種と葉が同じ像の中に置かれ、「言の葉」は思いから現れたものとして扱われている。
人が使う言葉は、特別な名句ばかりではない。挨拶、返事、説明、呼びかけ。後まで残ることを考えずに使われるものもある。
完成された表現だけでなく、日常の普通の一語まで含められるところに、「葉」の似合う理由があるように思う。枝につく葉は、木全体そのものではない。
ここにも引っかかるものがある。考えていることと、実際に口から出た言葉は同じではない。頭の中にあるものを全部そのまま差し出すことはできず、その一部が表現として外へ出る。
葉が木の全体ではないように、一つの言葉だけで人の考えの全体が決まるわけでもない。一方で、「言葉」は声だけを指さない。紙に書かれたものも、画面に表示されたものも言葉である。
音は発したそばから聞こえなくなるが、文字は形として残る。「葉」という目に見える字が付くことで、声と文字のどちらにも、ひとまとまりの姿が与えられている。
今の「言葉」では、そうした成り立ちを毎回思い浮かべることはない。文章を読むときも会話をするときも、「げん」と「よう」に分けて読む人はいないだろう。
「言」と「葉」は結びつき、意味の上では一つになっている。
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