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日曜日の朝は、いつも少しだけ時間の流れが違う気がする。

窓の外、金木犀がまだ残り香を漂わせている十月の朝。カーテン越しに差し込む光が畳の上に細長い四角をつくっていて、その中にうっすらと埃が舞っていた。コーヒーを淹れようとキッチンに立ったとき、ふいに「玉響(たまゆら)」という言葉が頭をよぎった。

玉響。古語辞典を開けば、「ほんのしばらくの間」「わずかな時間」を意味すると書いてある。もともとは「玉が触れ合ってかすかに鳴る音」、その余韻のような短さから転じて、瞬間の儚さを表すようになったとされている。万葉集にも用例があり、遠い昔の人々がこの言葉に込めた感覚は、おそらく今の私たちが「エモい」と呟くときの、あの胸のざわめきに近いものだったのかもしれない。

ただ、「エモい」は声に出した瞬間に消える。玉響は、口の中でゆっくり転がしてみると、音そのものがすでに余韻を持っている。「た・ま・ゆ・ら」。四つの音節が、ガラス玉が床に落ちて転がるときの、あの小さな連なりに似ている。

コーヒーを淹れながら、ふと思い出したことがある。子どもの頃、祖母の家の縁側で、風鈴の音を聞いていた夏の午後のこと。音は鳴って、すぐに消えた。その「消えた後」がなぜかずっと耳に残っていて、当時の私はそれを言葉にできなかった。玉響、という言葉を知っていたなら、あの感覚に名前をつけられたかもしれない。もっとも、小学生の私が縁側で「玉響ですね」などと言い始めたら、祖母はさぞかし驚いただろうけれど。

日本語には、こういう言葉がある。感情や情景を、ただ説明するのではなく、音の響きごと包み込んでしまうような表現が。漢字の成り立ちと、その音と、意味が三つ重なって初めて完成する、あの独特の奥行き。「玉響」の「玉」という字を見るだけで、何か丸くて透き通ったものが浮かぶ。描写とは本来、そういうものかもしれない。言葉が絵を持っている、という感覚。

架空のインテリアブランド「Shizuri(しずり)」が昨年のカタログで「玉響の間」という部屋名を使っていた、という話を友人から聞いた。それが本当かどうかは確かめていないが、そういう名前の部屋に、ひとり座ってみたいとは思う。

日曜の朝、金木犀の香りの中で、コーヒーカップを両手で包む。湯気が細く立ち上って、すぐに消える。その消え方が、玉響、という言葉にどこか似ていた。

言語とは、消えてしまうものに名前をつける試みなのかもしれない。日本語がこれほど多くの「一瞬」や「余韻」や「気配」に言葉を与えてきたのは、この国の人々が、消えゆくものの中にこそ美しさを見てきたからではないだろうか。あなたはどう思うだろう。
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こういう時間は、特別なものではなく、
ほんの少し意識するだけで日常の中に生まれるのかもしれません。

忙しさの中で見落としていたものに気づくと、
時間の流れは少しだけやさしくなる気がします。

もし、こうした“静かな余韻”に少しでも価値を感じるなら、
ぜひ武岡出版の作品もご覧ください。