RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
夕暮れが長い日に、本を開く
本を閉じるにはまだ早い。そう思わせる夕暮れがある。窓の外は明るさを保っているのに、昼の用事はひと通り終わっている。
空にはまだ青みがあり、遠くの建物の輪郭も見える。机の上では、本の頁が照明をつける前の光を受けている。夕暮れの長さは、季節によって変わる。
春から夏へ向かうころには、日が沈んだあとも空に明るさが残り、帰宅を急ぐ足音や、どこかの家から聞こえる食器の音が、昼と夜のあいだに置かれているように感じられる。私は、この境目の時間に本を読むのが好きだ。
昼間の集中とは少し違う。仕事や用事の輪郭がほどけていく一方で、夜の深さにはまだ入っていない。その曖昧さが、文章を読む速度に合っている。
小説の中では、登場人物が歩き、迷い、誰かの言葉を思い返している。こちらも一行ずつ進みながら、現実の時間からほんの少し離れていく。紙をめくる音は、部屋の外から届く自転車のブレーキ音より小さい。
それでも、その小ささが読書の時間を確かなものにする。
光の中にある余白
日本語には「暮れなずむ」という言葉がある。日が暮れかかっているのに、なかなか暗くならない様子を表す言葉だ。意味を知っているつもりでも、声に出すと、時間がその場にとどまろうとする感じがある。
「暮れる」と言い切らず、「なずむ」と続けるところに、光のためらいが見える。本にも、似たような時間がある。読み終えたのに、すぐには頁を閉じられない一節。
内容を完全に理解したわけではないのに、目にした言葉だけがしばらく頭の中に残っている瞬間。読書は、文字を追っている時間だけで成り立つものではないのだろう。
夕暮れには、昼と夜のどちらにも属さない余白がある。本を読むときにも、理解と忘却のあいだに、名前のつかない時間が生まれる。そこでは、言葉が知識になる前に、風景や温度として自分の中へ入ってくる。
明るさが薄れてくると、頁の白さが少しずつ変わる。そろそろ灯りをつけようと思いながら、私はもう一行だけ読む。その一行が特別な文章でなくても、その日の終わりに置かれた本の記憶として残ることがある。
夕暮れは、何かを急いで始めるための時間ではない。読みかけの本を開き、今日という日がまだ完全には終わっていないことを知るための時間なのかもしれない。
窓の外が鈍い紫色に変わるころ、頁の端に指を添える。灯りをつける前の最後の一行を、もう一度読む。
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