RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
物語の終わりを、決めすぎない
原稿の最後の一行を書いたあと、すぐに筆を置けないことがある。物語はそこで終わっているはずなのに、その先に登場人物が何を見て、何を言わずにいたのかが、まだこちらを向いている。
終わりを決めることは、創作の大事な仕事である。いつまでも続けていればよいわけではない。けれど、決めすぎると、物語の中にあったはずの呼吸まで閉じてしまう。
書かれていない時間
小説を読んでいて、最後の頁を閉じたあとに、登場人物の暮らしを想像することがある。あの人は翌朝、どんな顔で湯を沸かすのか。別れのあと、駅までの道で何を考えるのか。
書かれていない時間が、読者の中で続いている。その余白は、説明不足とは少し違う。作者が何も考えていないのではなく、考えたもののすべてを言葉にしないという選択である。
言葉には、書かれた部分だけでなく、書かれなかった部分も含まれているように感じる。もちろん、読者に伝えたいことがある。人物の気持ちや出来事の意味を、できるだけ正確に渡したいと思う。
それでも、物語の意味を一つに固定してしまうと、読む人それぞれの記憶が入り込む場所がなくなる。同じ一文を読んでも、そこに自分の経験を重ねる人がいる。
昔聞いた声を思い出す人もいれば、まだ知らない別れを想像する人もいる。本は、文字によって閉じられたものではなく、読む人の時間に触れたところで別の形を持ちはじめるのだろう。
終わりの向こう側
だから私は、物語の終わりに答えを並べすぎないようにしている。すべての謎を解き、すべての感情に名前を与え、登場人物の未来まで見せてしまうと、読み手が立ち止まる場所がなくなるからだ。
物語の外には、現実の時間が続いている。読み終えた人が本を机に置き、窓の外へ目を向ける。そのとき、道端の自転車や、湯気の立つマグカップや、遠くで閉まる扉の音が、いつもよりわずかに違って感じられたら、それで十分な気がする。
創作は、読者の心をこちらの思う通りに動かすためだけのものではない。言葉を置き、読者が自分の中で受け取る。その受け取り方を、作者が最後まで管理しないことも、書くことの一部なのだと思う。
原稿の最後の一行を書いたあと、私はしばらく画面を見ている。カーソルが、まだ次の文字を待っている。けれど、その一行の先には、書かない時間が残されている。
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