RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
「お湯」から「お」を取ったあと
「お湯」から「お」を取れば、「湯」になる。文字の上では、それだけのことである。ところが二つを並べると、丁寧さが一段下がっただけとは思えない。
指しているものはほとんど同じなのに、そのものが置かれている場所まで変わったように感じられる。「お名前」から「お」を取れば「名前」になる。相手への配慮は薄くなるが、何について話しているかは変わらない。
「お荷物」と「荷物」にも、同じような関係がある。接頭語としての「お」を外したあと、元の名詞がその場に残る。「お湯」は、少し様子が違う。
たとえば、「お湯が沸いた」と「湯が沸いた」を比べてみる。前者からは、これから注いだり、飲み物や料理に使ったりするものが思い浮かびやすい。後者も意味は通るが、浴槽や風呂のような、ある程度まとまった量の湯へ近づく。
あるいは、日常の発話というより、文章の一節や簡潔な記述のようにも見える。語尾を丁寧にしても、この差は消えない。「お湯を少しいただけますか」は、ごく自然な頼み方である。
「湯を少しいただけますか」も失礼な文ではない。それでも、頼んでいるものが急に日常の台所から離れ、薬を飲むための湯や、何かの作業に用いる湯のように、用途を説明したくなる。
丁寧さは文末に十分あるのに、「お」がないことだけが引っかかる。一方で、「湯」という字そのものが日常から遠いわけではない。湯気、湯船、給湯、熱湯。
別の字と結びつけば、湯は何のためのものか、どのような状態かをはっきり示す。「湯を注ぐ」「湯を沸かす」という言い方も成立する。だから、「湯」だけでは不自然だという話ではない。
気になるのは、「湯」が単独で目の前のものを指すときである。「お」が付くと、温められた水という物質の名が、いま使えるものの名へ変わるように見える。
量や温度を正確に示しているわけではない。それでも、「お湯を入れる」「お湯を足す」「お湯が足りない」と言えば、人の手が届く範囲にあるものとして収まりがよい。
この「お」を、単なる飾りと呼ぶのは少し乱暴なのだと思う。敬意の向かう相手が明確にいるわけではなく、外しても語義は失われない。にもかかわらず、外した瞬間に言い回しの用途が狭まり、似合う場面が選び直される。
「お」は湯を立派にしているのではなく、「お湯」という一語の輪郭に入り込んでいる。「お湯が冷めた」なら、使うはずだったものが目の前で冷めた感じがする。
「湯が冷めた」では、湯の状態を記している感じが先に立つ。取ったのは一字だけなのに、冷めている場所まで同じではない。
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