RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
台詞の横にある小さな動作
物語の会話には、台詞だけを追っていると見落としそうな短い動作が挟まる。顔を上げる。指を止める。
相手ではなく机の上を見る。どれも一行に満たないことが多い。それでも、その動作を取り除くと、誰が話しているのかだけでなく、人物がどのような状態でその台詞を口にしたのかまで分からなくなることがある。
会話の途中に動作を置く実務的な理由は明快である。話者を示せるからだ。「彼は言った」と書かなくても、直前まで彼が持っていた紙を折れば、その次の台詞が誰のものか伝わる。
二人以上の会話が続く場面では、こうした動作が名札の代わりになる。ただ、名札であるだけなら、動作の種類はそれほど重要ではないはずだ。人物を見分けられる行為であれば足りる。
ところが実際には、どの動作を選び、台詞の前と後のどちらに置くかで、同じ一言の読み方が変わる。たとえば、「行くよ」と言う前に手を止める場合と、言ったあとで手が止まる場合では、ためらいの位置が違って見える。
前者では、決断が口に届くまでに小さな抵抗がある。後者では、口は先に決めたものの、身体がまだその決定を引き受けていないように読める。動作そのものは同じでも、台詞との順番が人物の内側に時間差をつくる。
視線にも似た働きがある。相手を見るか、手元を見るか、何も示さずに視線を外すか。方向が書かれると、台詞が誰に向けられたものなのかが少し揺れる。
相手への返事でありながら、その相手を見ない。そのずれによって、「はい」や「分かった」の中に、返事だけでは片づかないものが残る。もちろん、目をそらせば必ず迷っているとは限らない。
考えをまとめているのかもしれないし、見られたくないものがあるのかもしれない。単に別の物へ注意が移ったとも読める。動作は感情の答えではない。
「ためらいながら言った」と書けば意味は決まりやすいが、視線や手の動きは、ためらいに似た状態を示しながら、その名前までは決めない。私は、この決め切らなさが気になる。
台詞は引用符の内側で完成している。「行く」「分かった」「もういい」と、人物は一度言い切る。一方、その横に置かれた動作は、言い切った内容と同じ方向へ進むとは限らない。
了承しながら物を渡さない。別れを告げながら立ち上がらない。否定しながら相手の表情を確かめる。
口と身体がわずかに食い違うと、人物は説明よりも複雑になる。動作を増やせばよいわけではない。台詞のたびに首を傾け、指を組み直し、窓へ目を向けていたら、人物は忙しく動く人形のようになる。
何を感じているかをすべて仕草で補えば、読者が迷う余地もなくなる。小さな動作が効くのは、説明の量ではなく、台詞だけでは整いすぎる箇所に置かれたときだと思う。
「いいよ」という返事のあと、指が紙の端から離れない。その指は話者を見分ける目印になっている。同時に、返事ほど簡単には先へ進めない部分も、そこに残している。
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