RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
扉が開く前に、場面を切る
人物が扉に手をかける。そこで場面を切る。扉はまだ開いていない。
向こう側も見えていない。それなのに、読む側では動作が止まりきらない。手をかけたなら、次には取っ手を回し、押すか引くかして、扉を開けるはずだ。
本文が書かなかった数秒を、読者の方が先へ進めてしまう。私が気になるのは、何があるかを隠せることだけではない。場面を終える位置によって、未完了の動作が文章の外へ持ち出されることである。
「扉を開けた」と書いてから切れば、動作はいったん完了する。次の場面が別の場所から始まっても、扉を開ける仕事は前の場面に収まっている。一方、「扉に手をかけた」で切ると、場面の区切りをまたいで動作が残る。
次の文章を読み始めても、こちらの中にはまだ、開けられようとしている扉がある。これは、単に一文を途中でやめることとは違う。「扉を」とだけ書いて切れば、文の欠落に見えやすい。
「手をかけた」まで書けば、その一文は成立している。文法上は終わっているのに、動作としては終わっていない。この二つの終わり方のずれが、場面の切れ目を働かせる。
扉という物も、この構成に向いている。扉は、それ自体が目的ではなく、その先へ移るために開けられることが多い。手をかけた時点で、読者には次の動作を予測できる。
何をするかはかなり絞られているのに、開いた先に何があるかは分からない。動作についての確かさと、結果についての不確かさが同時に置かれる。たとえば、次の場面を扉の向こう側から始めるとは限らない。
別の人物、別の時刻、別の場所へ移ることもできる。その場合も、前の場面に残された手は消えない。読者は、書かれなかった開閉をいったん預かったまま、次の場面へ入ることになる。
そこで示された出来事によって、あの扉の先を考え直すこともある。ただし、切ればいつでも緊張が生まれるわけではない。扉の向こうに何があるかを長く伏せたいという理由だけで場面を移すと、人物の手だけが不自然に取っ手へ置き去りになる。
未完了の動作には、先へ進もうとする力がある。その力を受け止めるものが次の場面になければ、引き延ばしの仕掛けが見えてしまう。書く側としては、扉が開くところまで続けたくなる。
開いた音、人物の反応、最初に目に入るものまで書けば、場面は分かりやすく収まる。だが、そこまで書くたびに、読者が引き受ける部分は減っていく。扉へ手をかけたところで切る構成は、肝心な情報を渡さない技法というより、動作の続きを読者へ一時的に渡す方法なのだと思う。
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