RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
棚の見出しが区切る、知識の並び
図書館の書架は、遠くから見ると長い本の列である。棚板が同じ高さで続き、背表紙が途切れなく並んでいる。その途中にある見出しは、本に比べれば小さい。
ところが、その小さな表示を外して考えると、目の前の列が急に広すぎるものになる。棚の見出しには、分類名だけでなく、そこに収められた番号の範囲が記されていることがある。
私が気になるのは、番号が本の位置を示すだけではなく、棚のどこからどこまでを同じまとまりとして読むかまで決めている点である。棚板そのものには切れ目がなくても、表示された範囲には始まりと終わりがある。
分類名と番号は、同じものを別の細かさで示している。分類名を見れば、歴史や社会科学といった大きな主題へ近づける。一方、番号は、その大きな名前の内側をさらに狭くたどるためにある。
名前だけでは広すぎ、番号だけでは何を扱う列なのかがつかみにくい。二つが並ぶことで、棚は意味と位置の両方を持つ。見出しが示す範囲は、本の題名を要約したものではない。
同じ分類名の下にも、扱う時代や地域、立場の異なる本が並ぶ。見出しが言っているのは、「ここにある本はすべて同じ内容だ」ということではなく、「探すなら、まずこの範囲を見ればよい」という程度のことである。
その大まかさが、かえって役に立っている。主題の境は、仕切り板のようにはっきり見えるとは限らない。ある番号までを示す見出しの近くに、その範囲の最後の本があり、その隣には次の範囲に属する本が置かれる。
二冊は数センチしか離れていなくても、分類上は別のまとまりである。知識の区切りは、棚の材質や形ではなく、表示によって初めて見える。しかも、見出し一枚が受け持つ棚の長さは一定ではない。
多くの本が集まる主題は何段にも広がり、少ない主題は短い幅で次へ移ることがある。同じような大きさの表示が付いていても、その先にある本の量はそろっていない。
分類が作る知識の大きさと、実際の蔵書が占める幅は別のものである。たとえば、見出しに示された番号が途切れず続いていても、棚板いっぱいに本が詰まる区間と、返却中や貸出中で背表紙の間が空く区間がありうる。
番号の幅が同じであっても、目で追う冊数や次のラベルまでの距離は違う。空きが一冊分か数冊分かによって、ラベルを拾う速さは変わる。分類上は滑らかに続く範囲であっても、目の前での探しやすさまでは表示から読み取れない。
分類の境に置かれた本を考えると、その区切りが絶対ではないことも分かる。一冊の本が複数の主題にまたがっていても、棚に置く以上は一つの位置が必要になる。
見出しは本の内容を完全に言い切る札ではなく、どこから探し始めるかを決める札でもある。別の分類から探した人には見つけにくい場合がある一方、一か所に定まっているからこそ、その本までたどり着ける。
本を探すとき、見出しは視線の動きを段階に分ける。まず分類名で近くまで行き、次に番号の範囲を確かめ、最後に一冊ずつの背表紙やラベルを見る。最初からすべての本を読んで探す必要はない。
見出しは知識そのものを説明するのではなく、探す範囲を少しずつ縮めている。こうして視線は、広い主題から一冊へ近づいていく。棚の見出しが変えているのは、本の列ではなく、探す順序である。
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