RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
結末まで読んで、題名に戻る
題名は、本文に入る前に、読者がその物語について受け取る言葉の一つである。著者名や帯の言葉が先に目に入ることはあっても、題名は物語への入口として残る。
それなのに、物語を読み終えたあとで、もう一度読まれることがある。文字は一つも変わっていない。変わったのは、その言葉の後ろに置かれたものの量である。
この前後の差が、私は気になる。読む前の題名には、まだ指す先がない。人の名前らしい題名なら、どんな人物なのかは分からない。
場所を示していても、そこで何が起きるのかは伏せられている。「帰る」「待つ」といった動作が含まれていれば、誰が、何を理由にそうするのかが空いたままである。
題名は内容を示しているようで、実際には多くの部分を未記入にしている。その空きが、物語を進むにつれて埋まっていく。ただし、情報が増えるだけではない。
たとえば「帰る」という言葉は、帰る場所が判明すれば理解できるとは限らない。ある人物が何を捨て、誰を残して帰るのかを知ったとき、同じ動詞にためらいや身勝手さまで含まれて見えることがある。
題名の意味を決めるのは出来事の説明より、そこに至った人物の選択なのだと思う。読む前には、題名を物語全体の看板として受け取る。読み終えたあとには、作中のどの場面がその言葉を引き受けていたのかを探す。
大きな事件ではなく、途中では脇に見えた判断が題名と結びつく場合もある。すると、その場面だけが急に重要になるのではない。そこから前後の出来事の重さまで組み替わる。
題名へ戻ることは、作品を短く要約することとは違う。何を中心に読んできたのかを、最後に少しずらされることである。題名と同じ言葉が本文中にもう一度現れるかどうかでも、戻り方は異なる。
本文の中で人物が「帰る」と口にすれば、読者はその場面と表紙の言葉を直接つなげられる。その一言が決断の前に出たのか、すべてが終わったあとに出たのかによっても響きは変わる。
反対に、題名の言葉が本文に一度も現れない場合、結び目は示されない。読者は人物の行動や場面の並びから、どこにその題名を重ねるのかを自分で探すことになる。
前者には作中に指差された一点があり、後者には物語全体へ薄く広がる余白がある。題名が、読み始めたときの予想を裏切ることもある。明るく見えた言葉が結末では痛みを帯びたり、強い断言だと思ったものが、実は人物の願いにすぎなかったと分かったりする。
これは単なる仕掛けとも言い切れない。最初の意味が誤りだったのではなく、読者が知らない部分を残したままでも成立する言葉が選ばれていたのである。
入口で読めた意味と、出口でしか読めない意味が、同じ題名の中に重なっている。一方で、すべての題名が結末によって大きく変わるわけではない。主人公の名前や舞台をそのまま掲げた題名は、最後まで案内札として働くこともある。
それでも、名前だけだったものが「この選択をした人物の名前」になるなら、変化は残る。語義が変わらなくても、その言葉をこちらがどう受け取るかは変わっている。
面白いのは、結末が題名を変えて見せるだけではなく、題名もまた結末の読み方へ戻ってくるところである。最後の出来事だけなら複数の受け取り方ができても、題名と並べた瞬間、そのうちの一つが強く見えることがある。
結末は本の最後に置かれているが、それを読み終えた読者の目は、最初の数文字まで引き返す。物語は一方向に進んだのに、理解だけが逆向きに動く。本を閉じれば、表紙の題名は再び目の前に出る。
そこにあるのは読み始める前と同じ文字列である。ただ今度は、その短い言葉の中に、誰が何を選んだのかまで見えている。
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