RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
校正紙の余白に、直した理由を残す
校正紙の赤字には、直す場所と直したあとの形が示される。どの語を削り、何へ置き換えるかは、それで分かる。私が気になるのは、同じ赤字の中に、異なる判断が隠れてしまうことである。
たとえば、ある一文に削除の指示が入っているとする。前の段落と内容が重なるためかもしれない。文章の進み方を妨げるためかもしれない。
事実関係に疑いがあり、いったん外したい場合もある。紙の上に残る結果はいずれも「削除」だが、削った理由まで同じとは限らない。そこで、校正紙の余白に理由を短く書き添える。
「前段と重なるため」「語調をそろえるため」「事実確認が必要」といった程度でよい。修正の説明を長く展開するのではなく、その赤字がどの方向を向いているのかだけを残す。
理由がない赤字は、受け取った側に採用か不採用かを迫りやすい。削るか、削らないか。置き換えるか、元へ戻すか。
ところが理由が分かれば、第三の直し方を考えられる。重複が問題なら、指定された一文ではなく前の段落を縮める方法もある。語調が問題なら、別の語へ直して内容を残せるかもしれない。
ここで共有されるのは、修正案そのものよりも、修正によって守ろうとしたものだと思う。著者は文章の意味や人物の調子を見ている。編集者は一冊の流れや読者の理解を考える。
校正者は表記だけでなく、文中の食い違いや確かめるべき箇所にも目を向ける。それぞれが違う位置から本文を読む以上、同じ箇所に立ち止まっても、気にしている点は一致しないことがある。
だから理由の書き添えは、自分の判断を押し通すための弁明ではない。「この直しが正しい」と証明する文章でもない。次に校正紙を受け取る人が、赤字の奥にある懸念を確かめるための手がかりである。
理由が見えれば、修正案には同意しなくても、問題の所在には応答できる。一方で、あらゆる赤字に理由を付ければよいわけではない。明らかな誤字の訂正に長い説明が並べば、重要な確認事項が余白に埋もれる。
理由を詳しく書きすぎると、今度は説明する側と説明される側に分かれ、校正紙が小さな論争の場になってしまう。余白に必要なのは、判断の全過程ではない。
何を問題として、その修正に至ったのかが分かる一片で足りる。短くすることで情報が減るのではなく、次の人が考え直せるところで止めるのである。この止め方は、本文を直すこととは別の校正の技術なのだろう。
とりわけ、「事実確認が必要」と添えられた赤字は、削除線が引かれていても、削除が確定した状態とは異なる。現時点では本文をそのまま通せず、根拠が確認できるまで判断を保留している、という印である。
注記がなければ、著者側には表現そのものが不要と判断されたように見える。注記があれば、求められているのは直ちに消すことではなく、出典や資料、前後の記述との整合を確かめ、その根拠を示して返すことである。
根拠が十分なら記述を維持でき、確認できなければ削除や修正へ移る。赤字の形が同じだとしても、「決定済み」と「確認待ち」では、次に手渡される仕事が違う。
余白の短い理由は、何を直すかだけでなく、その箇所がいま判断のどの段階にあるかを知らせる。「削除」だけなら、その一文を残すか消すかを決めることになる。
「前段と重なるため」とあれば、どちらを残すかまで考えられる。校正紙の余白には、その一歩分だけを書いておきたい。
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