RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
「父の椅子」と「窓辺の椅子」は同じ一脚
「父の椅子」と「窓辺の椅子」が、物語の中では同じ一脚を指している。家具の呼び名を揃えるなら、どちらかへ統一したくなるところだ。だが、ここで揃えてしまうと消えるものがある。
私が気になるのは椅子の違いではなく、同じ椅子を見た人物の違いである。地の文で一貫して「その椅子」と書けば、読者が迷う心配は少ない。物の識別だけを考えるなら、それが最も簡潔である。
ただ、「その椅子」は誰にとっての椅子なのかを語らない。家具を正しく示す一方で、人物がそこに何を見ているかまでは運んでくれない。ある人物が「父の椅子」と呼ぶとき、その人は形や置き場所より、父との結びつきを先に見ている。
父が今そこに座っている必要はない。父が実際に使ったのか、父にまつわる記憶からそう呼ぶのかは、呼び名だけでは決まらない。来歴を一つに決めなくても、呼び名そのものから、その人物が父との関係や記憶を優先して見ていることは伝わる。
別の人物が同じ一脚を「窓辺の椅子」と呼ぶなら、こちらが見ているのは所有者ではなく配置である。その人物にとって重要なのは、誰のものかではなく、部屋のどこにあるかかもしれない。
外を見るための場所として捉えている可能性もある。少なくとも、「父」を入口にしてはいないことは分かる。同じ物への呼び方が違うというだけで、一方には人との結びつきがあり、もう一方には部屋の中での位置がある。
作者が人物の過去や性格を並べて説明するより前に、何を基準にその物を見ているかが出る。呼び名は物に貼られた名札ではなく、その人物が物のどこを掴んだかの記録になる。
もし、「彼女は父との思い出を大切にしていた。一方、彼はその椅子を窓のそばにある家具としてしか考えていなかった」と書けば、違いは明確になる。ただ、明確になりすぎる。
読者は二人の見方に気づくのではなく、作者から人物評を渡されることになる。「父の椅子」と「窓辺の椅子」の差なら、人物評になる一歩手前で止められる。
もちろん、呼び分ければよいというものでもない。同じ物だと分からなければ、読者の中には椅子が二脚置かれてしまう。先に一度だけ位置関係を示す、片方の人物が動かした椅子を別の人物が見つけるなど、物としての連続は必要である。
同一性は動作や配置で支え、人物との距離だけを呼び名に任せる。この分担が崩れると、含みではなく混乱になる。また、どの物にも人物別の呼び名を与えると、仕掛けが前へ出すぎる。
机、時計、花瓶まで呼び分けられれば、人物より作者の工夫が見えてしまう。呼び名が変わる必然は、その物に対する関心の置きどころが本当に違う場合に限られる。
「父の椅子」と呼ぶ人物が、ほかの場面では平気で「窓辺の椅子」と言うなら、その揺れにも理由が要る。反対に、その揺れを変化として使うことはできる。
初めは「窓辺の椅子」としか呼ばなかった人物が、誰かの見方を知ったあとで「父の椅子」と呼ぶ。そこで起きているのは家具の名称変更ではない。他人にとっての意味が、その人物の見方へ入り込んだという小さな変化である。
説明を足さなくても、以前の呼び方との差が働く。二人が同じ部屋にいる場面では、呼び方の食い違いをさらに具体へ戻せる。一人が「父の椅子」を窓から離し、もう一人が「窓辺の椅子」がなくなったと気づく。
動かされたのは一脚だけである。それでも二人の文の中では、失われたものが同じではない。
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