RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
暦の秋分は、一日の中の一瞬で決まる
カレンダーに書かれた「秋分の日」は、一日分の欄をきちんと占めている。朝から夜まで同じ名前で呼ばれ、祝日として扱われる。ところが、秋分そのものには一日という長さがない。
この「日」と「一瞬」の不釣り合いに、私は引っかかった。秋分とは、天球上を移動して見える太陽が、天の赤道を北から南へ横切る瞬間である。天の赤道は、地球の赤道を空へ延長して考えた線だ。
太陽の中心がその線と重なる位置を通過する。その一点に達する時刻があり、その瞬間を含む日が、日本の暦では秋分の日になる。暦には日付しか並んでいないため、「秋分」という出来事も一日がかりで起きているように見える。
実際には、その日の大部分で太陽は交点の手前か先にいる。秋分の日の中に秋分ではない時間がほとんどを占め、その間に一度だけ条件が成立する。「秋分」という字からは、昼と夜が同じ長さになる日を思い浮かべやすい。
私も、日付を決める基準は昼夜の長さだと考えたくなる。だが、日の出と日の入りは太陽の中心ではなく上端が地平線にかかる時刻を基準にし、大気による光の屈折もある。
そのため、秋分の日に昼と夜が厳密に十二時間ずつになるとは限らない。つまり、昼と夜を実際に計って、その差が最も小さい日を選んでいるわけではない。
「ほぼ半分に分かれる」という一日全体の印象よりも、太陽が天の赤道を横切ったかどうかが先にある。秋分の日を決めるのは、長さの比較ではなく位置の通過である。
ここには、天体の動きと暦の作り方の違いも見える。太陽の見かけの移動は、日付の区切りで止まらない。一方、暦は連続する時間を午前零時で切り分け、どこか一つの升目へ収めなければならない。
切れ目なく進むものに、一日単位の名前を付けるには、通過の瞬間をどちら側へ入れるかを決める必要がある。暦の日付は、午前零時から次の午前零時までを一つの区間として並べる。
交点の通過時刻が確定すると、その時刻が入る区間も自動的に一つに定まる。通過の前後で太陽の移動に印が付くわけではなく、時刻を日付の区間へ照合することで、暦の側に名称を置く場所が決まる。
観測される運行を区切るのではなく、記録の枠に対応させる手続きだ。そのため、秋分の日は毎年まったく同じ日付に固定されているわけではない。地球が太陽の周りを一周する時間と、暦の一年には端数があり、うるう年による調整も入る。
交点を通過する時刻が年ごとにずれれば、その瞬間を受け取る日付も動く。季節が気まぐれに移るのではなく、連続した運行を整数の日付へ割り当てるところで違いが現れる。
秋分の瞬間そのものは、地球上のどこにいても同じ一回の出来事である。ただし、各地域の時刻帯に直せば、その瞬間に対応する現地の日付が異なる場合がある。
これは各地で秋分という通過が別々に起こるという意味ではない。また、日本で祝日として定められる「秋分の日」は、日本の暦でその瞬間を含む日付に基づく名称であり、ほかの地域の現地日付まで同じ祝日名で扱うものではない。
たとえば、その通過が日本標準時の午後十一時五十九分なら、日本ではその日が秋分の日になる。午前零時一分なら、日付は翌日である。天体の動きとしては二分しか離れていない。
それでも、日本のカレンダーでは別の一日が選ばれる。同じ瞬間を別の時刻帯で示した結果、現地の日付が前日や翌日になっても、それは日本の祝日の判定とは別の話である。
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