RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
手紙の文面より先に、消印を読ませる
物語の中に手紙を出すとき、私が気になるのは、誰が何を書いたかだけではない。その手紙を、読者がどの順番で見るかである。封筒に日付や局名を判別できる消印があるなら、文面を開く前に、まずそこを読ませてみたい。
消印は、手紙の内容を説明しない。「いつごろ、どこから郵便として出されたか」という外側の情報を示すだけである。ところが、その外側を先に知ると、読者はまだ読んでいない文面に小さな条件を持ち込むことになる。
たとえば、消印の日付を見たあとで、本文に「明日、ここを発つ」と書かれていたとする。書いた日と投函した日が同じなら、特に不自然ではない。だが、消印がその予定日を過ぎていれば、「明日」の意味はそのまま通らなくなる。
書いてから出せなかったのか。予定が変わったのか。別の誰かがあとで投函したのか。
消印は答えを示さないが、文面を額面どおりには読ませなくする。差出地とのずれも使える。手紙には「こちらへ着いた」とあるのに、消印の局名は出発前にいたはずの土地を示している。
これは直ちに嘘の証拠にはならない。手紙が預けられていた可能性もあれば、作中でまだ明かされていない事情もある。重要なのは、説明できる可能性が一つに決まらないことだと思う。
消印が示すのは、書き手がその場所で文章を書いたことではない。郵便物がそこで扱われたことに近い。書いた場所、封をした場所、投函された場所は、同じとは限らない。
この少し頼りきれない性質が、物語では都合がよい。事実らしい手がかりでありながら、事情の全体までは確定しないからである。もし文面を読んだあとに消印を見せれば、読者の関心は答え合わせへ向かいやすい。
「あの一文は、この日付と食い違っていたのか」と確認する読みになる。先に見せた場合は逆である。何が食い違うのか分からないまま本文へ入るので、何でもない挨拶や予定の一文まで、あとで引っかかるかもしれない情報として読まれる。
この順序には、書き手側の節度も要る。消印を大写しにし、登場人物に日付と局名を読み上げさせ、さらに「おかしい」と考えさせれば、読者が気づく余地はほとんど残らない。
封筒の描写の中に、読めるだけの情報を置けば足りる。数字の一部がかすれているなら、その不完全さも事情を増やすが、意味ありげに強調しすぎると、今度は仕掛けの印が見えてしまう。
反対に、ずれが細かすぎても働かない。日付や土地の名が、その前後の出来事と結びつかなければ、読者には単なる記載事項で終わる。消印だけを巧妙にしてもだめで、作中ですでに示された移動の予定、滞在の日数、人物がいるはずの場所のどれかと接して、初めて違和感になる。
そして、その違和感の直後に事情を説明しない。少なくとも、手紙を読み終えるまでは待つ。読者は文面の「明日、ここを発つ」を読みながら、先に見た消印の日付を捨てられない。
その「明日」には、書かれてから投函されるまでに過ぎたかもしれない何日かが、すでに入り込んでいる。
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