RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
仮の書き出しが、本文の一部になるまで
書き出しは、最初から書き出しとして完成しているとは限らない。空白のままでは先へ進みにくいから、とりあえず一文を置くことがある。その時点では、もっと合うものが見つかれば取り替えるつもりでいる。
ところが本文が伸びたあとで戻ってみると、その一文だけを簡単には外せなくなっている。気になるのは、仮だった一文が急に優れた文章へ変わるわけではないことだ。
そこに書かれた語句は同じままである。変わったのは、その後ろに文章ができたことの方だ。たとえば冒頭で、ある対象を少し離れたところから示したとする。
次の段落では、その距離を前提に具体へ近づいていく。さらに後ろでは、冒頭に置いた語を繰り返さず、別の呼び方で受け直す。こうして本文の側が、最初の一文にあった視点や順序を借り始める。
語調も同じである。仮の一文を短く言い切れば、続く文章はその強さを受けるか、少し緩めるかを選ぶことになる。反対に、冒頭に留保があれば、本文はその曖昧さを残したまま進むのか、途中で確かめるのかを求められる。
最初は深く考えずに選んだ語尾が、後続の文に判断をさせている。順序への影響は、さらに見えにくい。冒頭で結論に近いものを先に置けば、本文は理由をたどる形になる。
具体から始めれば、後ろの段落には、その具体をどこまで広げるかという役目が生まれる。書き出しは一文の内容だけでなく、まだ存在しなかった文章の並び方まで決めてしまう。
それなら、最初から慎重に書けばよいとも思える。だが、後ろに何が並ぶか分からない段階で、冒頭だけを完成させるのは難しい。書き出しの適否は、その一文を眺めている間よりも、本文ができてからの方がよく見える。
仮置きには、未完成だからこそ先へ進ませる役目がある。もちろん、最後まで仮のままの一文もある。削って二段落目から読んでも何も失われず、むしろ早く本題へ入れることもある。
その場合、後続の文章は冒頭からほとんど何も受け取っていない。そこにあるのは入口ではなく、書き手が本文へ入るために使った足場に近い。一方、削った途端に二段落目の主語が唐突になったり、話の順番が一段飛ばしに見えたりするなら、事情が違う。
残したいという愛着だけではなく、本文の内部にその一文を必要とする箇所ができている。書き出しを直すとき、確認すべきなのは冒頭の見栄えだけではない。
後ろのどの文が、そこへ体重を預けているかである。仮の書き出しが本文の一部になるのは、書き手が「これでよい」と決めた瞬間だけではない。三段落目の一語を直すために、最初の一文まで動かさなければならなくなったとき、すでに仮という札は役に立たなくなっている。
新しい記事をメールで受け取る
武岡 隆の新しい文章が公開されたとき、メールで静かにお知らせします。
登録料・購読料はかかりません。メールアドレスはブログ更新通知のためだけに使用します。いつでも解除できます。


