RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
麦茶が一杯分に少し足りない
麦茶の容器の底に、グラス一杯には少し足りない量が残っている。ほんの一口なら迷いにくい。半分ほどあれば、それも一杯として注げる。
気になるのは、その間ではない。一杯にするつもりで注げば、最後に少し空きができるくらいの量である。その麦茶を普段のグラスへ移すと、「少し足りない」ことがはっきりする。
液面の上に残った空間が、一杯との差を見せるからだ。容器の中では底に残った麦茶だったものが、グラスでは満ち切らない一杯になる。量が変わったのではなく、見比べる相手が容器の底からグラスの縁へ移ったのである。
私は、このわずかな不足が、麦茶の量だけから生まれているわけではないところに引っかかる。もっと小さなグラスなら、同じ量でも十分な一杯になる。大きなグラスなら、さらに頼りなく見える。
「一杯分」は正確な単位のようでいて、先に思い浮かべた器の大きさに左右されている。毎回ちょうどよい器を探すわけではない。普段使っているグラスを前にすると、そのグラスを満たす量が一杯分になる。
足りないのは麦茶そのものというより、すでにこちらが決めていた形に対してである。注がずに残せば、麦茶はまだ用意されている側にある。次に回せるかもしれないし、別の分と合わせられるかもしれない。
実際にどう扱うかはともかく、残っているうちは用途が確定していない。一方、グラスへ注げば、それは今から飲む分として引き受けられる。ちょうど一杯分あれば、注ぐ判断はほとんど意識されない。
ごくわずかしかなければ、残りとして扱うことにも迷いは少ない。少しだけ足りないときに限って、注ぐことと残すことの両方に理由ができる。量の曖昧さではなく、二つの扱い方がどちらも成立することが、判断を止めるのだと思う。
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