RYU TAKEOCA BLOG
武岡 隆のブログ
本、活字、日本語、物語、記憶、時間。
日々の中でふと立ち止まったことを、武岡 隆の言葉で静かに綴ります。
もう向きを直せない一冊
机に並んでいる本は、作者がまだ向きを直せる。少しずれれば揃え、表紙が見えにくければ置き方を変えられる。文学フリマのように本を直接手渡す場について考えるとき、私が立ち止まるのは、その一冊をもう直せなくなる瞬間である。
本は、印刷されて製本された時点で一度完成する。原稿だったものにページが生まれ、表紙が付き、ばらばらにならない形へまとめられる。書いているあいだは何度も直せた文章も、刷り上がれば容易には変更できない。
その意味では、確かにそこで一区切りが付いている。一方、完成した本が作者の手元にあるうちは、まだ作者の側に属している。どこへ置くか、いつ出すか、誰に見せるかを決められるからだ。
中に収めた文章は動かなくなっていても、本そのものの行き先までは決まっていない。対面で本を販売する場には、代金との交換がある。本が商品であることを外して考える必要はない。
価格を付け、並べ、選ばれた一冊を渡す。その仕組みがなければ、書き手と読み手のあいだを本が移動する機会も生まれにくい。売ることと届けることは、別々の動作ではなく同じ場面に重なっている。
ただ、本は商品として渡されたあとも、その役割が終わらない。箱や瓶なら中身を運び終えたところで用が済む場合もあるが、本はページの順番、文字の位置、余白まで含めて中身である。
表紙と綴じられた紙は、文章を崩さずに持ち運び、別の人が同じ順序で読めるようにする。私には、本が言葉を人から人へ渡す器だと感じられるのは、この点である。
書店や通信販売を通じても、本は読者へ届く。対面では、渡る直前の短い時間だけが表に現れる。読む人は、机の上で表紙を見て、題名を確かめ、価格と照らし合わせながら、手に取るかどうかを選ぶ。
作者はその選択を見守ることはできても、何に引かれたかを一つに定めることはできない。まして本が渡ったあと、最初から読むのか、途中のページを先に開くのか、どこで閉じるのかは決められない。
目の前に見えるのは本を選ぶところまでであり、言葉の受け取られ方は、その近さの先ですでに読者へ委ねられている。その経路に優劣があるわけではない。
ただし、書店や通信販売の場合、作者には一冊が移っていく境目が見えにくい。対面の場では、机のこちら側にあった本が、知らない誰かの持ち物になるまでの距離が短い。
普段は流通の途中に隠れている変化が、手渡すという一つの動作に収まる。ここで大事なのは、手渡したからといって、すぐ読まれるとは限らないことだと思う。
しばらく置かれるかもしれないし、途中で閉じられることもある。購入された事実と、文章が読者の中へ届くことは同じではない。売れた冊数だけでは、その先に起きることまでは分からない。
むしろ、分からなくなることが、作者の手を離れるということなのだろう。どのページから強く読まれるか、どこで止まり、どの一文が残らないかも、作者は決められない。
書いている最中には一語ずつ選んでいたのに、読まれ始めれば、読む速さも受け取り方も読者の側にある。本の完成後に残っていた作者の権限が、そこでようやく尽きていく。
直接手渡す場で見えるのは、読書の結果ではない。これから先には手を入れられない、という境目だけである。机の上にあるうちは、ずれた一冊を揃えられる。
誰かの手へ渡ったあとは、もう表紙の向きさえ直せない。
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